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ササラモサラな気分で

大体は映画のこと書いてます。










《紙の月》

新作映画(2014)



よくある話。




紙の月







93点



作品の詳しい情報はコチラ でどうぞ。




傑作《桐島、部活やめるってよ》以来の吉田大八監督最新作ということでみてきました。

この監督、一見歪ながらも確かに本質を捉えている青春映画の名手という感じがしました。《腑抜けども〜》や《クヒオ大佐》や《桐島〜》など何かを求める人たちが、その何かを見出すためにあがきもがく姿を様々な捉え方で切り取っていたのかなと紙の月を見て強く思いました。

今回は「善良な」人々からだまし取った金欲望全開に直走った結果、社会的にも精神的にも追い詰められてく腐れマンコを主人公に青春を描き、更にそれに対する複数の視点からの”価値”を見出していくという映画だと思いました

まずこの映画の素晴らしいところは何と言っても映画的としか言いようのない演出の数々です。まさに映画的演出の宝庫というか、映画的演出のラーメン二郎です。一つ一つ取り出して書いていくとただでさえ読みづらい乱文が更にごっちゃごちゃになっちゃうので、特に印象深いものをいくつか書き残しておきます。

まずは

・駅で宮沢りえ池松壮亮と出会うシーン一回目。この二人ここで初めて会話らしい会話をぎこちなく交わしてから電車の中で宮沢りえが気付いているのかそうじゃないのかを長回しで見せる→電車を降りる宮沢りえとそれを追わない池松壮亮→ホームを歩く宮沢りえを背後から追うカメラ→そして・・・の一連の流れ。ここの説明的なセリフもなくメインの芝居は目線と瞬きのみというスクリーンでないとわからない細かな演技とセリフではない緊張感の上での鮮やかな説明。これこそが映画的演出でその後を左右するハラハラ感を出すということだと思いました。まあこのシーンのオチは予告編で観れちゃってるので魅力は半減しますけど。ここで何故二人が既に互いを意識しているのか何て考えるのはこの映画的に野暮なんですけど、一応ぼくが思ったこととしては、お互いの臭いを嗅ぎつけたということだと思います。エロじじいの孫であり、池松壮亮さん自体のエロい目つきというか、飄々とした雰囲気の奔放さにお固い環境の宮沢りえは魅かれるし、池松さん側もその逆って感じで。というかこの俳優二人の説得力が勝利していると思いますよ(投げやりです)。

次に駅で宮沢りえ池松壮亮と出会うシーン二回目・・・。と書いていて気付いたことは一回目だけで上のような文章量なのでもう各シーンを上げていくだけにします。

・二人が公園で話すシーンで、自転車を止める→池松壮亮のもとに宮沢りえが駆け寄る→二人が並んで話すところ。

・初めての横領を犯罪サスペンス並みにその手口を丁寧に積み重ねる→女を使っての横領成功!→かと思ったら後ろにクソばばあ!(小林聡美のことです)。

・ワンカットで伊勢志摩の居心地がどんどん悪くなる件。

・いちゃいちゃして満足げな表情の宮沢りえ→真面目に勤める宮沢りえの抑制の利いた切り替え

・アクション映画での出撃直前の武器装備シーンばりの横領に必要な機器をそろえてゆく過程のモンタージュ

などなどあげていったらそれだけで記事が終わりそう&だんだんネタバレに近づくので椅子でどっかーんするところとかは書かないでおきます。なるべく前情報なしの方が楽しい映画だと思うので。

今さらですけどなぜ映画的な演出があるからいいのかというと、それは映画でしか得られない何か、感動や楽しさや面白みといったものがあるからです。

何にも代えがたいものを体感できた時の喜びです。

どうしようもないクサレマンコの話ですが、金をだまし取る相手が金持ち年寄りばかりだったり、聖書の教え=(この映画の中では)同義的な正しさに忠実だからこそ社会的に歪な存在となってしまっていたり、そもそも銀行に最近勤めだしたということからも夫からの扱いからしても”責任”を求めている人というのがその是非は別にして誰しもに当てはまることだったり、このクサレマンコは別に悪人ではないはずなんですよ。

ただ自分がしていることの本質が何なのかを、それが偽物なのか本物なのかを知りたいという欲求があっただけだと思います。

それを追い求めるうちに露わになってしまうダークサイドに蝕まれていったことが大問題になってしまうので結果的に悪人になったというか、この人がアウトになってしまったのは根からクズとかではなく結果論としてだと思いました。

だからこそラストの彼女の行動はとても爽やかな印象を残すように、今まであった出来事をすべて受け入れた上での行動のように映っているんだと思います。彼女がやりたいことをやった、やるべきことと折り合いをつけることではなく、本物にたどりついた瞬間だと思いました。

エピローグのシーンは宇多丸師匠が《藁の楯》評のラストシーンに言及した際におっしゃっていた「心霊的なシーン」というニュアンスがあったと思います。

そして最後の最後に町中に消えていくのは本物をつかんだ彼女が雑踏の中に消えていく=人混みにのまれていく=彼女もまたその他大勢の人物と変わりのない人=この映画もまた”ありがちな話”、ということだと思いました。(思いっきりネタバレですがどうしても書きたかったので白字になってます)



まだまだ言いたいことはあって、この映画で会話シーンが続くと観客の受け止め方の答え合わせという感じが強まってしまう気がしたんです。特にラスト近辺の小林聡美とか。

あと上記した電車のシーンはフレンチコネクションの電車乗るのらないのシーンなみにハラハラしたのにそのシーンのオチを予告で見せちゃってるのはやっぱりいただけないとか。

色々ありますがこのくらいにしておきます。

ちなみに最初に書いた「よくある話」っていうはあるキャラクターのセリフですが(ちょっと違うかもしれませんがニュアンスは同じです)本当にこれをちゃんと宣言しているのは素晴らしいと思いました。

今回も非常に読みづらい乱文失礼しました。最後まで読んでくださりありがとうございます!